撮影日:2012年3月3日
日露戦争時、芸予要塞の一つとして砲台が置かれた大久野島は、戦争前から終戦にかけて毒ガスを大量生産されました。
製造は極秘とされ、戦後にいたるまで大久野島は地図から抹消されていました。
イペリット(びらん性毒剤)の製造に重点を置かれ、他にもルイサイト、ヂ.フェニールアンアルシン、青酸、塩化アセトフェノンが製造されました。
製造において防毒マスクや衣服、手袋、長靴などで完全に覆っていても、隙間から工員の体に浸透し、戦時中、戦後にわたって被害が発生しました。
この資料館では明治時代の研究時代から、昭和始めの毒ガス製造、戦後の工員への後遺症までを含めて資料を展示しています。
戦争の悲惨さを後世に伝えるため、資料館が建てられたとの事です。